インタビューサドベリースクール

僕が「正解がない社会を生きる力」を学んだのは、授業もテストもない学校「サドベリースクール」だった:蓑田道さん

 

un-controlでは「今までの常識に支配(コントロール)されず、ひとりひとりの『やりたいこと』を大切にする教育のかたち」をお伝えしています。

とはいえ、押し付けられることがない「自由」のなかで自己決定をしていくことは、ある意味「ルールを守ること」より大変で険しい道のりです。

今後、ますます正解がなくなっていく世の中で、自分らしく生き抜く力はどうしたら身に着けることができるのか

そんなことを考えていたとき、ある面白そうな学校の話を聞きました。

その学校には、なんと授業もテストもなく、「これをしなさい」と強制する先生もいないと言います。

その名前は、サドベリースクール。

サドベリースクールが生まれたのは、1968年のボストンです。子どもたちがカリキュラムや時間割に強制されることなく自分の興味関心に沿って学んでいくこと、コミュニティのルールを生徒自身が主体的に決めていくことなどを特徴としたサドベリースクールのスタイルは、世界各地へと広まっていきました。

授業もない、テストもない、先生もいない。通常の学校とは全く様子の異なるサドベリースクールは、「正解の見えづらい社会のなかで、私たちはどう生きていくか」という疑問に対して、ひとつの回答を用意してくれているのではないか――

そんな期待をもって、今回は、日本のあるサドベリースクールの卒業生である蓑田道(みのだ・たお)さん(16歳)と、その父親である雅之(まさゆき)さんにお話しを伺いました。

前編は道さんのお話です。

自分で考えることを大切にする東京コミュニティスクールでの学び


道さんが、サドベリースクールに入ったのは中学生1年生のときと伺いましたが、小学生のころは、どんなお子さんだったのでしょうか?


実は僕、小学校2年生のときに、自分の意志で転校をしていて…


おお。そうなんですね。


小学校2年生までは地元の公立小学校に通っていました。でも、あらかじめ決められた「正解」に誘導されていく感覚や、周りと違う意見をいいにくい雰囲気に違和感がありました。

学校に行っても楽しそうではない僕の様子を見て、「ほかの学校も見に行ってみる?」と親から提案されたんです。それが、東京コミュニティスクールでした。

1週間の体験授業に行ってみると、本当に毎日が楽しくて!すぐに親に「転校したい」言いました。


どんな学校だったんでしょうか?


東京コミュニティスクールは「自分はどう思うのか」を考えて、伝えることをすごく大切にしている学校でしたね。

いちばん楽しかったのは、毎日午後になると始まるテーマ学習の時間です。毎日、様々なテーマに基づいて調べ学習をしたり、外に出かけて行って探求活動をしたり。得た知識や経験から自分自身で考えたことを保護者の前で発表するんです。


めちゃくちゃ楽しそう…


そうなんですよ。


いちばん印象に残っているテーマ学習はありますか?


「個の尊厳」という死についてみんなで考えがテーマのときです。葬儀屋に行って話を聞いたり、30年後に自分が何をしているかを考えて年表を書いたり。

死を遠いものとしてとらえるのではなく、身近なものとしてとらえたうえで、自分はどう生きるかを考えて、最後に劇としてみんなで発表したんです。


小学生で死についてそんなに真剣に考えること、なかなかないですよね。


東京コミュニティスクールでは、ただ知識を学ぶのではなく、「自分はどう考え、どう生きるか」を考える授業が多かったですね。

ゲームにのめりこみ、徐々に勉強をしなくなった


中学からサドベリースクールに行きはじめたのはどうしてですか?


東京コミュニティスクールは小学校までしかなかったので、進学先を探していたんです。最初は私立中学の受験を考えていたんですが、学校説明会に行ったら大学の進学先の話ばかりで聞いているのが少しつらくなってきてしまって。

そこからいくつか学校見学にいったのですが、たまたま雑誌で見つけて体験に行ったサドベリーに行ってみたいなと思ったんです。


なぜ「行ってみたいな」と思ったんでしょうか?


うーん。正直なところ、授業もテストもなくて好きなことができるならゲームし放題じゃん!って思って(笑)


すごくいい理由だと思います!(笑)


とはいえ、最初は勉強もしなくちゃという意識があったんです。だから、独学で勉強をしながら、昼休憩で1時間ゲームをすると決めていたんですよ。


はい。


でも気づいたら、どんどん昼休憩の時間がのびていって(笑)最終的にはゲームだけにのめりこんでいき、中学1年生の終わりには、1日中ゲームをし続けていました。


ほかのみんなは、毎日どんなことをしているのが気になります。


僕が通っていたところでは、ゲームをしている人が多かったですね。それ以外の時間で、やるべきこととして決まっているのは、朝と夕方のミーティングだけでした。


ミーティング?


普通の学校では元から決められている校則があるけど、サドベリーでは生徒が参加するミーティングでルールを決めるんです。


例えばどんなことを話し合うんですか?


生徒同士でトラブルがあったときにルールを決めたり、学校の経営状況が公開されているので、経営方針も生徒が決めたりしますね。


経営方針まで…!


ただの多数決ではなく、コミュニティを維持していくために全員の妥協点を見つけるまで話し合います。


圧倒的な自由がありつつ、その自由は「自分たちでルールをつくり、それを守る」という責任とセットになっているんですね。

自由の中で感じるあせり


私は、社会で決められている「やるべきこと」をやっていない自分を感じると、「あせり」みたいなものを感じてしまうことがあって。

でも、サドベリーではそもそも「やるべきこと」すら、決まっていない。そういう状況になると人はどう感じるのかが気になっているんです。


やるべきことは決められていないけれど、やはり「あせり」のような感覚はありましたね。

やっぱりずっとゲームだけだと僕は飽きてきてしまって。でも、ゲーム以外にやりたいことも見つからない。そんなときは「このままじゃやばいんじゃないか」っていう危機感がありました。


みんなそういうあせりがあるんでしょうか?


みんなあるとは限らないし、あせりを感じる時期もばらばらだと思います。あと、こういう話をするときに大切だと思っていることがあって。


大切なこと?


それは、「あせりを持つこと」が必ずしも正しいわけではないってことで。


あせりを持つことが、正しいわけではない…


はい。ゲームが好きでそれをずっとやるかどうかは個人が決めることだし、良いとも悪いともいえない。人それぞれだと思うんです。


たしかに。


そういう前提がありつつ、僕自身について言えば「将来的に、自分の力で生きていくためにはどうしたらいいか」ということに関心があった。だから、僕はこのままでいいのかなっていう不安がありました。

やりたいことをやるためには、学ぶことが必要だと感じた


そんなとき、ある本に出会ったんです。

それが、中上健次の岬という本でした。岬は、中上自身が出身である被差別部落をテーマにした作品なのですが、自分のいる世界とまったく違う世界に衝撃を受けたんですね。

そこから社会問題に興味をもち、いろいろな本を読むようになりました。高校生がやっていた政治の団体に参加したり、防衛大臣の演説を聞きに行ったり…


何かサドベリースクールでの生活にも変化がありましたか?


ありました。国語から数学、歴史までものすごく勉強するようになりました。


それは必要性を感じたからでしょうか?


やっぱり広い意味で学習ってすべてにつながっているなって。社会問題について話し合ったり、行動したりしていくためには、歴史を学ばなくてはいけない。難しい本を読むなら、漢字も知らないといけない。

そう思ったときに、自分が分からないことだらけだということに気づいたんです。


なるほど。


そこから自分の興味がある分野を大学で勉強したいと思うようになり、高卒認定資格をとりました。大学生になるまでは学校に通わずに自分の好きなことを学ぼうと思っています。今は街づくりの団体に参加したり、自分で名古屋の街を紹介するNAGOYAPRESSをつくったりしています。

自由のなかで徹底的に世間の「当たり前」と向き合う


道さんは、振り返ってみて、サドベリースクールに通っていてよかったと思いますか?


そうですね、よかったと思います。


なぜそう思いますか?


僕の場合は、もともと勉強に対して嫌だなという思いがあって。でも1年半くらい自分の好きなことを徹底的にしてから、勉強に向き合ったときに、意外と面白いものだなっていう再発見がありました。自分から学ぼうと思うと意外と楽しいな、みたいな。

自由で何にも強制されない時間があったからこそ、気づくことができたんだと思うんです。そう思うと、自由な時間のなかで、自分のやりたいことを見つけられる場所なのかもしれないですね。


なるほど。


でもだからといって、見つけられるとは限らない。よく「サドベリーに行くと、好きなことを見つけられるようになるんですか?」って聞かれるんですけど、それは分からないと思うんです。


見つかるかもしれないし、見つからないかもしれない。


そう。そもそも、必ず見つける「べき」というわけでもないと思うんです。そこも含めて人それぞれだから。やりたいことが見つかっても、見つからなくても、それもふくめて「本人に任せるよ」っていうのがサドベリーのいいところだと思うんです。


たしかに最近は「好きなことを見つける」というのが「良いもの」と思われがちですが、そればかりが正しいとも限らないですよね。

道さんは、これまで、いろんなカタチの教育を受けてきていますよね。その中で見つけた理想の教育のカタチってありますか?


うーん。難しいなあ。どれも自分にとっては必要だったなと思います。

サドベリーみたいに完全に自由で好きなことだけをやる期間があってもいいけど、外の社会に何があるか全く分からなくなってしまうと、社会で行動をすることへのハードルが高くなってしまうイメージもあって。


ほかの世界をしっていたほうが、行動しやすいということでしょうか?


そうかもしれない。僕の場合は、小学校は東京コミュニティスクールという別の学校に通って社会とつながる機会が多かったので、それは自分にとってはよかったなと思っています。


なるほど。


サドベリースクールが完ぺきってわけじゃなくて、やっぱり良いところも悪いところもある。それを全部含めて「いいところ」なんじゃないかなって思っています。

ほとんどのコミュニティでは「理想」として掲げられているものがあるじゃないですか。いい大学にはいるとか、有名な会社に就職するとか。でもサドベリーはそれがない。何も「正解」がないなかで、世間で言われている「当たり前」「良いとされていること」は本当にそうなのかという哲学的な問いに向き合いつづける。自由だってきくとすごくいいイメージがあるけど、実は、めちゃくちゃ大変なことなんですよね。

でも、正解がないと生きることができないよりは、正解がないなかでどれが正解かなって考える力はみにつくのではないかと感じます。


その力は、これからの時代を生きていくうえで大切な気がします。本日は、ありがとうございました。

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